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zoom RSS むろの木と、神嶋。

<<   作成日時 : 2017/06/14 21:48  

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 写真:  播磨灘(姫路の海)(家島群島 西島:家島本島から西望)
 ( 遠方、中央は、院下島 )


むろの木と神嶋。

 平成29年春、姫路市民に全戸配布されたグラ
フィックひめじ 『再発見。姫路の海』(姫路市
市長公室広報課)によりますと、
播磨灘のことは『古事記』や『日本書紀』にも
記載があり、また江戸時代には吉田松陰らの
記載も残るとされています。
 そして、中世には細川幽斉ら、瀬戸内海を往来した
戦国武将たちも、多くの日記を残しています。
 また、『万葉集』には瀬戸内海を旅した万葉人や
遣新羅使人の歌などが多くあります。

難波津(大阪)を船出し、武庫の浦(尼崎)〜藤江の浦
(明石)〜津田の細江(姫路)〜室津(たつの)〜玉の浦
(倉敷)〜神島鞆の浦(福山)〜風早の浦(東広島)〜
長門の島(呉)〜麻里布の浦(岩国)〜分間の浦(中津)
〜そして筑紫館(福岡)と、みな風光明媚な万葉の故地
です。
=====================


1.むろの木(鞆の浦)

鞆の浦の万葉の代表作といえば、大伴家持の父で
ある大伴旅人の、
○我妹子が見し鞆の浦のムロノキは
    常世にあれど見し人そなき 
(巻3ー446)
が、よく知られています。大伴旅人は九州に赴任す
る時妻とともに鞆の浦で室の木を見ました。その翌年、
妻は大宰府で亡くなりました。天平2年(730)大宰府の
任を終えた旅人は、ひとりで都に帰る途中、再度、鞆の
浦に立ち寄った時、亡き妻をしのび、この「むろの木」の
歌を詠んだそうです。
その翌年、旅人は都で亡くなりました。


2.神島(鞆の浦の近所) −−−神島は全国で十数か所。

 この万葉歌に関連して戦国武将の木下勝俊(龍野城主)
『九州の道の記』(1592年)の「鞆の浦でむろの木を探し、
神島で蹴鞠」の項に、「さて、見し鞆の浦のむろの木は常
世にあれど とよめるは、いずこぞ」と尋ね侍りければ【昔
はこの浦にありつ】と言い伝へたれど、今は跡かたも侍ら
ねば、さだかに知る人もさぶらはず。されど【あの磯にありし】
など、古き人は申し置きける。その地へまかりたれど、ことな
る見所もなく、ただ波の寄せ来るのみにてぞありける。
かく名ある木も跡かたなく、何事も昔に変わりゆくこそ
ものごとに悲しくは侍れ。
 その帰さに知る人ありければ、神島(かしま)といふ
所に立ち寄りけり・・・・」
と記しています。
鞆の浦の近くに、神島がありました。

3.神島の歌。
  万葉の二つの神島
(遣新羅使人)−−天平8年(736)

○月読みの光を清み 神島の 磯廻の浦ゆ 船出す 我は
                     (万葉 巻15-3599)は、
玉の浦(「ぬばたまの夜は明けぬらし 玉の浦に あさりする
鶴 鳴き渡るなり
」(巻15-3598)と、
鞆の浦(「離れ磯に立てるむろの木 うたがたも久しき時を
過ぎにけるかも
(巻15-3600)
の間に記されており、玉の浦(倉敷)と鞆の浦(福山)と
の間でしょう。

では、この歌が詠まれたのは具体的にどこでしょうか?
古来、「二つの神島」の説(笠岡市神島説と福山市西神島説)
があり、未だ決着がついていません。

 @笠岡市神島(こうのしま)−−備中説
  神島(こうのしま)は、今は島の北側が埋め立てられ
  陸続きになっています。北側の内浦には「島の天神」、
  南側の外浦には「神島神社」があり、そこからは南方
  に、鞆の浦の方面に美しい瀬戸の海が広がり、この
  万葉歌碑もあります。天然記念物の「カブトガニ博物
  館」もあり、風光明媚な観光地になっています。しかし
  ここには考古学的な遺跡はないようです。

 A福山市西神島町(にしかしま)−−備後説
  ここの神島八幡宮にも、この万葉歌碑があります。
  もとは沼隈郡鹿嶋村。江戸時代(1619)の大火で村は
  焼失し、その西部に移住して西鹿島村を作ったと言わ
  れています。鹿島村のあたりは、古く万葉時代には海
  水面が高く、かつては深くいりくんだ「穴の海」の入り口
  の小島だったと言われ、その周辺の「津之郷」と云わ
  れる地域には、弥生時代〜古墳時代の遺跡も数多く
  あります。

考古学的には、福山市の西神島(にしかしま)の方が
合理的なようです。

4.紀伊の田辺市の磯間の浦の神島(かしま)。
  −−南方熊楠の粘菌研究地の神島−−
 これも有名ですが、瀬戸内海を往来した遣新羅使の
 ルートから考えると、どうでしょうか?

5.『播磨国風土記』にもとづく、万葉の神島の説。
           ( 第4、第5の 万葉の神嶋の説。)

 @「播磨国風土記」の揖保郡の家島群島のどこかに
   神嶋があり、石神があるとされます。
 A「播磨国風土記」の神嶋上島だといわれています。
   遣新羅使のルート上です。
 B室津は「ムロ生(むろふ)の泊」とも言われています。
   裏山は嫦娥山です。  (嫦娥−−月の神)
 Cシーボルトは、室津に・・・・・。
 D「摂播五泊」(小舟で5泊目が室津)、(大船で5泊目
   が鞆の浦?)でしょう。
 E家島群島のナゾの巨石がある西島が、神嶋かもしれ
   ません。そうだとすると、(ムロ崎や桐ノ木ノ鼻に囲ま
   れた磯廻の浦?)が、地形的にもピッタリです。??

もし、再発見の家島の西島の巨石が『播磨国風土記』の
石神であったなら、そして「播磨国風土記」の伝承どおり
慎みて固く戒めて韓人と言わず、盲のことに拘わらず」
   ≪ 「播磨国風土記」、268行目::揖保郡。 ≫
で、あったならば、7世紀の中大兄皇子のころにはヨク
知られていたであろう家島の神嶋の巨石が、8世紀には
忘れ去られてしまい、神島は瀬戸内海の中部のものと
され、大伴家持の『万葉集』の編纂に影響したかもしれ
ません。

 そしていま、中大兄皇子の頃と同様に、家島の石神
甦り、日神/月神が常識となったならば、この
「月読みの 光を清み 神島の 磯廻の浦ゆ 船出す 我は」
の歌は、瀬戸内海の東部、すなわち、姫路市家島町の
西島の歌であろうとも考えられないでしょうか?

  これは、やはり、私だけの妄想でしょうか?
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

参考文献
  ・万葉集
  ・「万葉の三山の歌と播磨」(ネット)
  ・播磨国風土記(山川出版社)
  ・中世日記紀行集(岩波書店)
  ・古代日本の航海術/茂在虎男(小学館)

関連?図書
  ・播磨古歌考(姫路文学館)橋本政次 1995.


 ◎ 本稿は、八十定巳先生(播磨考古学研究会)に
     御校閲を賜りました。   深謝いたします。
     
    ( 慎みのない、)姫路・土井治道  記。



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